移住者が社会の多様性を促進する要因に関する研究:与論島と諏訪瀬島の移住者の意識調査
研究代表者:萩野 誠(鹿児島大学・法文学部)
共同研究者:赤嶺 政信(琉球大学・法文学部)
共同研究者:桑原 季雄(鹿児島大学・法文学部)
共同研究者:西村 知(鹿児島大学・法文学部)
共同研究者:市川 英孝(鹿児島大学・法文学部)
共同研究者:兼城 糸絵(鹿児島大学・法文学部)
共同研究者:馬場 武(鹿児島大学・法文学部)
【平成28~29年度 共同利用・共同研究実績報告】
研究成果
人口の少ない離島の人口減少・高齢化は島の存続を危機にさらすこととなる。離島は、内陸部の限界集落と比較すると、航路の維持などの費用がかかるため存続においては厳しい条件にある。実際、調査を行った島を含む十島村の臥蛇島(がじゃじま)では、1970年に全島民が移住し、無人島となった。しかし、近年、十島村は、定住促進のための様々な政策のおかげで人口が増加しており、全国でも注目される存在となっている。特にこの村の中で人口増加率が高いのが諏訪之瀬島である(図1参照)。この島の移住者の多くは、後述するようにIターン者である。Iターン者とは、島外出身者が島に移り、定住した者である。また、この島を支える60代以上の高齢者の多くが、1970年代に人口減少によって島の存続が危ぶまれたときに島民の希望によって島に移住してきた人々の一部である。本報告の課題は、離島におけるIターン者定着の過程、要因、その影響を諏訪之瀬島の事例を用いて明らかにすることである。この課題の解明のために、十島村役場地域振興課、および諏訪之瀬島の村役場出張所において聞き取り調査および統計資料の収集を行った。そして、諏訪之瀬島を訪れ、Iターン者へ移住に至った過程や島での暮らしの現況について聞き取り調査を行った。聞き取り調査の対象者は、1970年代に移住した高齢者および十年以内に移住した若者である。前者からは、存続の危機にあった島における移住者の実態・役割、後者については移住を決意した理由などを中心に聞き取り調査を行った。以下は課題に関する考察を、Iターン者による移住、移住の要因としての教育・コミューン、多様性という三点に絞って整理したものである。
A氏(男性、36歳)は、島内にある九州電工の発電所員の公募に応募し、採用され、妻と子供二人を連れて7年前に関西より島に移住した。島で、二人の子供をもうけ、現在では6人家族である。彼が、島への移住を決めた理由は、田舎暮らしが好きであるという個人的な理由が強かったが、定職があることと子育てに時間を取ることができるということも重要な理由であった。
Iターン者の多い第二の理由は、島を支える古株のIターン者の存在である。聞き取り調査に協力をしていただいたB氏(男性、72歳)もその一人である。彼は、大学卒業後の長い世界旅行の後、1970年代の初めに当時、島にあった共同生活を行うコミューン、「パンヤン・アシュラム」を訪ねて26歳の時に島に移住した。このコミューンはマスコミからは「ヒッピー」の一団と呼ばれていた集団であるが、彼の説明によると「ヒンズー教や仏教を通して人間の感性に向かう自給自足を行う集団」であった。
諏訪之瀬島は、今後は、空き家不足や五年間を上限とする就業支援(就業者育成奨励金制度)が切れた後のIターン者の定着など様々な課題が残るものの、現時点では、Iターン者による島の活性化に成功している。この成功要因を「多様性」の観点から整理すると以下のニ点にまとめることができる。第一点は、島人の多様性である。島は、文化10年(1813年)の火山大噴火の後に無人島化し、70年後の1880年代に奄美大島出身の藤井富伝らが入植した。そして、前述の通り、1960年代末には、コミューンの形成が新しい島民グループを形成した。奄美からの入植者の子孫とコミューンの島人たちは差異を乗り越えて共同性を作り上げた。このことが、多様な価値観を持つIターン者を許容する文化を生んだと考えられる。第二の要因は、多様な主体の協働関係である。島人は、役場やNPOと協力しながらIターン者の受け入れに力を入れている。NPO法人トカラ・インターフェースはIターン希望者のための島の視察ツアーの企画・運営も行っている。